自らの欲求や思考は本当に自らの物なのか。【虐殺器官】

SF

デビューからわずか2年で早逝された伊藤計劃氏の処女作でありながら最高傑作である「虐殺器官」。哲学的であり生物学的でもある命題に対して、医療や軍事など多岐に渡る技術が現在よりも少し進んだ近未来を舞台に描いている。おそらく現実ではあり得ないことなのだろうけれど、もしかしたらあり得るかも?と思える様な理論武装と豊かな表現がとても魅力的である。

小説やアニメ映画などがあるが、アニメ映画ではどうしても時間制限の都合上省かれている設定があるので1番のオススメはやはり小説だ。ただし、”1番の”オススメが小説だというだけで、アニメ映画も非常に力作となっており、声優陣にも中村悠一さんや櫻井孝宏さんら錚々たる方々が並んでいる。(筆者はBlu-rayも購入している)

本文では、小説版を元に細かいストーリーについてというよりも本作内で取り上げられている非常に興味深い議題について備忘録的に記述していきたい。ネタバレも多分にあるので、まだ小説を読んでいない方は先に小説を読むことを推奨する。

出典:Project Itoh

人が認識する”現実”を規定するのは”思考”なのか”言語”なのか

「現実は言語に規定されてしまうほどあやふやではない。思考は言語に先行するの」ルツィア・シュクロウプ

本作中で主人公のクラヴィス・シェパードが、ジョン・ポールのことを探るために彼の元恋人でありチェコ語の語学講師をしているルツィアの元に潜入した際に意見を交わしていた内容である。

つまりは「人が認識する”現実”を規定するのは”思考”(”イメージ”とも言い換えられる)なのか”言語”なのか」という議題だ。

これについては、見出しにも記載したように本文内でルツィアが“現実”を規定するのは”思考”であると断言している。”言語”で思考しているため”現実”を規定するのは”言語”ではないか感じても、あくまで”言語”という枠組みは”思考”という枠組みに包含されているものであり、”思考”したものを出力するために”言語”を用いるのだと。

よく我々の日常の一幕でも「どう言葉で表したらいいだろうか」という言葉を聞く。これは”言語”より大きな枠組みである”思考”で現実を規定していることが分かる一番身近な例だと思う。現実を規定している”イメージ”が既に頭の中に存在しており、それを表現できる”言語”を頭の中で探しているのである。

“絶対的で純粋な自由”ではなく”選択された自由”が存在するだけ

「自由の選択の問題ですね」ルーシャス

本作中でクラヴィスがルツィアに連れられて、生体認証であらゆる支払いが済む時代である本作中において旧時代的な紙幣を用いてやり取りするクラブに赴いた際に、その店のオーナーであるルーシャスと交わしていた会話である。

ここで話がされているのは、“絶対的で純粋な自由”が存在するのではなく自らが選ぶ”選択された自由”が存在するだけなのだということ。これは非常に分かりやすく、労働は時間的自由を奪うけれど金銭的自由を得るというような、特に大人にとっては現代社会においても至極当たり前に認識されているような言説だと思う。

人の”判断基準”は”遺伝的産物”なのか、”社会的産物”なのか

「良心そのものは、生物の進化の過程から生まれたものよ」ルツィア・シュクロウプ

本作中でルーシャスのクラブからの帰り際、クラヴィスとルーシャスが交わした会話の内容である。

ここでの議題は「人の”判断基準”というものは”生物学的進化の産物”なのか、”社会的環境の産物”なのか」というもの。

ここでルツィアは判断基準としての”良心”自体は”遺伝的産物”であり”良心のディテール”は”社会的産物”だと語る。弱い生物が生存することさえ厳しい世界で生存適応するためには他の個体を利し安定した集団を築くことが重要であったために良心は生まれ、その上で生存自体はさほど難しくない現代では、モラルの観念(良心のディテール)が明らかに異なる地域が存在すると。

その上で、ルツィアは”遺伝的産物”である”良心”にも”社会的産物”である”良心のディテール”にも自らの選択の責任を負わせることはできないとしている。”判断基準”の根本である”良心”は遺伝的社会的に生まれたものであっても、あくまで自分の選択はそれらの先行条件に依らず自分の責任で行うべきであると。

当たり前ですね。罪を犯した際に「それは人間という種が悪い」とか「私が育った環境が悪い」とか言ったところで、環境については多少の情状酌量の余地があったとしても、責任は罪を犯すという選択をした自らが負う必要があるだろう。

人の価値判断は言葉によってある程度捻じ曲げることができる

「この文法による言葉を長く聴き続けた人間の脳には、ある種の変化が生じる。とある価値判断に関わる脳の機能部位の活動が抑制されるのだ」ジョン・ポール

クラヴィスが拉致された先でジョンと会話するシーン。ここでこの物語の根幹についての会話がなされる。

ここでの話題は、「人の価値判断は言葉によってある程度捻じ曲げることができる」というもの。

ジョンは、MIT時代在籍時に国防総省からの予算を受けて世界各国の公文書やメディア、通信などあらゆるトラフィックの文法の研究をしていた。その中で虐殺が起こった場所ではその虐殺が発生する少し前からそれらあらゆるトラフィック上の文法にあるパターンが浮かび上がってくることを発見する。言語の違いに依らない深層の文法を。

そこでジョンは逆にその文法をあらゆるトラフィックに乗せて発信すれば、その言葉が脳の複数のモジュールに影響し判断基準を思考性をもって捻じ曲げ、いかに平和な地域であったとしても虐殺が起こるのではないかとの仮説を立て実行したところ、実際に引き起こせたのである。

その人間に元来備わっている深層の文法が、他の臓器などの器官と同様に人類が進化の過程で遺伝子に刻まれてきたものであることを指してクラヴィスは「虐殺器官」という言葉を用いる。

ここで、前節と合わせて考えると、自らの判断というものの責任は自分で負う必要があるが、その判断自体は遺伝的な産物を脳の内に持っているため外的要因によって捻じ曲げられうるものであるということである。

“自分の定義”そして”自分の判断の定義”

「この殺意は自分自身の殺意だろうか」クラヴィス・シェパード

本書を通して問われているものは“自分の定義”であり“自分の判断の定義”である。

クラヴィスの母は、交通事故で植物状態になりクラヴィス自身が生命維持を止めることで命を落としている。脳のどのモジュールが生き、どのモジュールが死んでいるかを認識できる本作中の時代でも、その人の意識が残っているのか、その人自身が生きているのかを判断できていない。

脳の特定のモジュールにマスキングを掛けることで、子供を射殺しても罪悪感が生まれないようにすることで、本来であれば良心が邪魔をして撃たないという判断をしたかもしれない自らの思考を捻じ曲げて撃つという判断をしている。

集団で虐殺の文法を聞くことにより、それを聞かなければ平和に過ごしていた人々が虐殺をするという判断をする。

脳のどの程度のモジュールが活動していれば、”それ”は”自分”であり、脳のどのモジュールの活動によって判断すれば”それ”は”自分の判断”になり得るのか。

本作を読了したとき、私はこの作品で問われていることにフィクション性をあまり感じず、きめ細かな表現も相まってリアル性を非常に感じた。

これから先、脳の構造について科学的に解き明かされていき、そのモジュールへの外的要因による影響を意図的に与えることも可能になる未来は必ずくるだろう。その近い未来において本書で問われていることは、身近な問題として問われることになる。

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